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そのギャルソンが店にいた期間は、わずか半年ほどだった。
ゼフの手足になれるだけの人材のいなかった当時のバラティエで、ひとり料理にてんてこ舞いするゼフの代わりに、サンジに給仕としてのテーブルマナーの基礎を仕込んだのが、このギャルソンだった。

歳はゼフより十違うか、といったくらいだったか。
黒い髪と黒い目。
あの世代にしては珍しく鬚をキチンとあたっていて、背がわりあいに高かったせいか妙な迫力があった。
話し口調は幼いサンジにまですこぶる丁寧で、サンジが教えられた通りにできると誉めてくれた。ゼフは一切誉めることがなかったので、そのことをサンジはよく憶えている。
海賊の襲撃と海賊並みに血の気が多いコックどものなかで、戦闘には全く向いてなかったギャルソンが、無傷でこの船に居続けられたのは、よく回る達者な口と度胸があったからだ。三下程度のチンピラ相手なら、口先だけで追い出していた。
その口は、ゼフと料理談義してる時には、特に生き生きと動いた。
専門用語や固有名詞が激しく飛び交うゼフとギャルソンの話は、サンジはもちろん、若いコックどもすらついて行けない高度さで、あの後にも先にも、料理の話をあれほど夢中でしているゼフをサンジは見たことがない。

「友人と喧嘩をしたんです」
あまり自分自身のことを語らなかったギャルソンが、バラティエを辞める前の晩、ホールの片隅でゼフと酌み交わしながらぽつりぽつりと語った。
親友の料理人と店をやっていたが、互いの意見が合わなくなって、喧嘩別れしてしまったと。
バラティエを辞めた後は、もうギャルソンを続ける気はないのだと。
「仲直りすれば?」サンジが言うと、ゼフと顔を見合わせて、ほんの少しだけ、寂しそうに笑った。

その笑顔が、サンジが見たギャルソンの最後になった。


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「あれから十年くらい他所で働いてたそうだ。でも、結局元の店に帰ったらしい」
「なんだ、ヨリ戻したんじゃん」
ゼフはサンジを呆れた顔で見やり、
「…………親友はその時にはもう死んでた。その親友の息子に拝み倒されたんだとさ」
「………そう、なんだ…………。」

サンジは知らなかったが、つい数年前までゼフは彼と手紙のやり取りをしていた。
店に復帰した時も、その旨を伝える手紙が送られてきたそうだ。

「よかったら遊びにきてくれと言われたがな、遠くて行けなかった。互いにな」

ギャルソンの店は東の海の最果ての島で、バラティエの航路からは少々外れていた。よほどの用がないかぎりは、そこまで出向くことはない。
ゆっくりと海流に乗って移動するバラティエが、もっとも島に近づくのは年に一度。ちょうど、今の時期だけだった。

しとしとと長雨にけぶる、この時期だけ──────────。



「……がよかった」

ゼフの、誰にともなく呟いた言葉は、サンジが聞き返す間もなく,霧雨に濡れた路面をひた走る馬車の車輪の音にかき消された。

ゼフはサンジを見ない。
ただひたすら、灰色の街並を眺め続けている。

手持ちぶさたのサンジは下に目をやった。
視界の左にゼフの足が映る。右足が。
温湿布を忘れたことを、今さらになってぼんやりと後悔する。
サンジはゼフの右膝を包むように手をのせた。
ゼフが振り向いてサンジと、手の置かれた膝を見た。

ガラゴロガラゴロガラゴロガラゴロガラゴロ…………

単調な車輪の音だけが続いている。
ゼフがまた窓の外に視線を戻す。
サンジも膝に手を置いたまま、反対側の窓に目をやった。
到着するまで、ただじっと静かにそうしていた。