今年も台風の訪れを皮切りに、梅雨がやってきた。
海上レストランバラティエが一番ヒマになる時期である。
料理人達は、それぞれ休みを取って陸へ上がってしまった。船に残っている者も、この梅雨の生温い空気でふやけてしまったかのように、だらだらと過ごしている。
そんな閑散とした船内で活発に動くのは、幼いサンジただ一人だけだ。
ダラけた大人どもを見るに耐えない、とばかりにサンジは仕事を見つけてはちょこまかと働いていた。
しかし、こう何日も閑古鳥が鳴いてると、さすがにそれも尽きてくる。
困ったサンジは、ゼフの自室のドアを叩いた。
「なんだよ、ジジイまでぐうたらしやがって」
ゼフも一応コックコートに袖は通しているものの、ベッドに寝そべって足を伸ばして、レシピノートを広げていた。
ゼフは億劫そうに膨れ面のサンジを見やり、
「客の来ねえ間に英気を養っておくんだよ。この梅雨が明けりゃあ、イヤでも忙しくなるんだ。てめェも今のうち休んどけ」
追い払うように手を振ると、またノートに目を戻した。 だが、それで引っ込むサンジではない。ゼフの傍らにわざと、ドスンと勢いよく腰を落とすと足をブラつかせて、ヒマだのツマンナイだのとわめき始めた。
「仕事ないなら足技の稽古つけてくれよ」 「部屋ン中でか?アホナス。家具壊したらてめェの給料から差ッ引くぞ」
「だってヒマなんだもん」
「じゃスクワットでも何でもしてろ。てめェの部屋で。」
「何時間もできッかよ!」
「じゃ知らねェよ」
ゼフはさっさと背を向けて無視を決め込む。ついでに後ろ足で騒音の元をベッドから蹴り落とした。
固い床に転がったサンジは、グズグズと文句を言っていたのだが、やがて、諦めたのか静かになった。
どれくらい時間が経ったのか。 ふとサンジがいたことを思い出し、振り返ったゼフが見たのは、転がり落ちた場所のまま膝を抱えている小さな背中だった。
頭を沈めて、耳も塞いで、何も見ない聞かないように、サンジはぎゅっと固まっていた。
ゼフはサンジが背を向けて拒絶している方へ目をやった。
窓ガラスを打ちつける大きな雨粒と重い雲、グレーの海。
あの日のような空模様。
そういえば……と、思い出す。
こんな天気の日はいつもサンジは、脇目もくれずにひたすら厨房と客席とを動き回っていた。
ゼフは渋い顔でベッドから起き上がり、カーテンを乱暴に閉めた。
サンジはまだ、顔を上げない。
抱き上げられ、ベッドに腰掛けさせられてようやく、ゼフを見た。
「ティータイムにはちとズレるが……」そう前置きして、ゼフはレシピノートをサンジの目の前にかざし、「食うか?」
サンジは小さくうなづいた。
階下に向かうゼフにサンジは黙ってついて来た。無意識なのか、ゼフのコックコートの裾を握り締めている。
誰もいない厨房に着くとゼフはサンジを隅の椅子に座らせて何やら作り始めた。
卵も小麦粉もないところを見ると、焼き菓子の類ではないらしい。
ゼラチンがあるので、多分ゼリー類の何かであるのだろうが、それにしては果物を刻んだり搾ったりする様子は見られない。ゼリーを飾る生クリームもない。
一体何をつくっているのか、サンジには全く見当がつかなかった。
ゼフがその菓子を冷蔵庫に放り込んで120分経った。
待ちくたびれたサンジは、ついうとうとしてしまっていたらしい。揺り起こされて、客席の、窓際の一番いい席に促された。
まだ頭が覚めきれないサンジの前に置かれたのは、透明な器になみなみと注がれた一杯の水だった。
まるで、雨水を集めたような
サンジは訝しげにゼフを見る。
「いいから。食ってみろ。」
スプーンの先で水の表面に触れてみる。
水の表面には、軽く押し返す弾力があった。
驚きで眠気が一瞬にして飛んでしまったサンジは、ふるふるとしている、その透明なゼリーを口に入れた。
無色透明無味無臭。……いや、味ならある。
水の味だ。ほんのり舌に残る甘味は、砂糖などのソレではない。水そのものの甘味だった。
「そいつだけじゃ、飽きるだろ」
と、ゼフはこれまた透明な液体をゼリーの上にかけた。液体はシロップだった。
甘味は強くなったが、ゼリーの味を壊す感じではない。
これに似たもので思い出せるのは、いつぞや買い出しの時にカルネが連れていってくれた、甘味処の氷あずきだ。雪のような氷に茹で小豆を乗せて、白蜜をかけただけのシンプルな味。
だが、これはさらに余分なものが何もないだけに、ごってりとしたディナーで満腹な時でも、胃に納まるのではないかと思う。
「以外に盲点だろう?」
「うん、……面白いよコレ!」
「もう一つ、レモンマートルのもあるぞ。」
ゼフが持ってきたのは、ほんのり黄色みがかったゼリーで、口に入れると微かにレモンの風味がした。
レモンゼリーではない。先程の水のゼリーに、ほんの一、二滴果汁をたらした程度の味だ。
「気に入ったか?」
「うん。ねえ、コレって店に出すの?」
「そうだな……雨の日限定にでもするか?」
ゼフの意図に気付いたサンジが顔を上げた。
ゼリーをすくうのをじっと見ていた視線とぶつかる。
真っ向から受け止めてしまったゼフの目が、見慣れないやわらかさを帯びていて、それが妙に気恥ずかしくて、サンジはついっと窓に目を向けた。
雨はもう、小止みになってきている。
スプーンに乗ったゼリーと同じ色をした日差しが、グレーの波間を照らしていた。
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