料理人と海賊



昼に釣れたかれいは、皿ごとオーブンで熱々に焼き上げ、酸味のあるソースをかけた。
最後に立ち寄った港で仕入れた赤かぶは、裏ごししてラビオリの具に。芥子の実ソースとチーズの塩気がラビオリのほのかな甘味を引き立てて。 
サラダには、鮮度の高いうちにと、ローストトマトと葉物野菜をふんだんに使った。
デザートの代わりにグラッパ。次の島は三日後だ。果物は残り少なかったので今夜は出せない。

「私の舌は気難しくてね。宮廷料理というヤツも何度かいただいたことがあったが、どうも口に合わなかった。だが、君の料理はいい。懐かしい、優しい味がするからね。」

そう誉めてくれたひとは、傍らで骸をさらしていた。
いつも笑みを絶やさなかった口角は血の泡がこびりつき、縁に皺の刻まれた穏やかな目は、ぐるりとひっくり返ってあらぬ方向を見ている。
袈裟がけに斬られた背中からは、未だ生温かい血があふれて床を濡らし、全身をきつく縛られて身動きの取れぬゼフのコックコートを汚した。

静かだ。ただひとつの音を除いては。
他の略奪者どもは、もうこの船から出て行ったのだろうか。
デッキシューズに血が染み込んでゆく音が聞こえるんじゃないかと思うほどの静けさ。死の静寂。
この船で生ある者は、自分と、目の前の海賊だけなのだと悟った。
唯一静寂を掻き壊している音を睨み付ける。
金属と陶器が触れあう音。
あおむけに床に転がされているので海賊の足とテーブルの裏しか見えないが、食事をしている様子は手に取るようにわかる。
心底腹が立った。
自分の目の前で主人を殺し、乗組員まで殺した。こんな奴のために作ったメシじゃない。本来ならば、十人足らずの平和な夕食の光景がここにあったはずなのに………………

『僕が釣ったかれいは特別に美味いだろ?』
『何を言ってるんだ、ゼフが作ったソースがいいからだ。』
『ラビオリ取ってくれよ!』
『君ひとりで摂取するなよ。』
『教授、もう一杯いかがですか?』
『ああ、ありがとう。』
『サラダはまだ残ってる?』
『なぁ、またリゾットが食べたいな。ほら、この前の……』
『ああ、うずらに詰めたアレですね。次の港に着いたら仕入れましょうか。』
『楽しみにしてるよ。』

飢えも寒さも争いもない食卓。
学問の徒であった彼らの話は時に専門的すぎて、必要最低限の読み書き算盤しかできなかったゼフには到底理解できるものではなかったけれど、尋けば彼らは…殊に、博物学の権威で、“教授”と慕われたこの船の主人は、ゼフが納得するまで丁寧に教えてくれ、またゼフ自身も熱心に聞いた。結果、十七でこの船に雇われてからの八年の間に、料理人としては些か余分なまでの知恵と知識が身についてしまったのだが。

そんな、充たされた時間。 
ずっと続くと思っていた、静かな日々。
それを。

カチャリ。
ナイフとフォークが置かれる音がし、やや沈黙の後、卓上から声が落ちてきた。
「おい、料理人。」
口をつぐんでいると、男は席を離れゼフの前にしゃがんだ。覗き込んでくる顔はまだ若い。たぶん自分と十は離れていないだろう。丸い眼鏡をかけたやや面長な顔は理知的で、海賊船よりもこの船にいる方が似つかわしく見えた。
男が食事をしていた様子を思い起こす。貪らず、がっつかず、綺麗に食器を操る音がしていた。教授が食事をしているときのような…………。
だが、主人と違い、その目はひどく冷たかった。
冷たい印象を受ける目というのは、この船の乗組員たちにもわりといたのだが、男のは学者のそれとは根本的に異なっていた。
感情を押さえた目じゃない。
最初っから人としての感情が欠けていた。自分が生まれ育った地方にいた狼と同じ目だった。

ふいに首筋に冷たいものがあてがわれた。
銀のフィッシュナイフだ。
切れ味が鋭いわけではないが、刃物は刃物。殺傷能力は十二分にある。しかも刃先は丸みを帯びているのだ。こんなもので傷つけられたら、傷口がくずれて癒着しにくい分、刀傷より痛むに決まっている。腰の短銃でなくわざわざこんなナイフを突きつけた理由がそれなら、この男、悪魔より性質が悪い。ゼフは顔をしかめた。

男は優しく言った。
「食事の礼だ。選ぶ権利をくれてやる。俺たちの船とあの世と。お前、どちらの料理人でいたい?」


「そんな礼なンざいらねえよ。てめぇに作ったメシじゃねえ。」
男は喉の奥でくぐもった笑いをたて、満足気にうなずいた。その笑顔のまま、ナイフを押し付ける手に重さを加えてなぞる。ゼフの柔らかい首の皮膚に、赤い線と冷たい感触が残った。
「どっちだ?」畳み掛けるように繰り返す。
ゼフは男を見据え、
「権利だか何だか知らねえがな、そんなのが礼だってのか?」
「何?」ナイフがほんの僅かだけ離れる。
「礼ってのはな、『ごちそうさま』って言うことだろうが。」
切れ長の冷たい目が虚をつかれて、凄みが褪せた。瞬間
「お…、お前…ッ」男はこらえきれずに吹き出した。
「生きるか死ぬかって瀬戸際に…………!そんな言葉を聞くことがそれほど重要か?!」
「当たり前だ」殺されかかっている者とは思えぬふてぶてしさで鼻を鳴らし、「満足できねえものを食わせたまンま、死ねるか。」
憮然とする料理人に海賊は笑い転げた。
「骨の随まで料理人か!…気に入った。お前を連れていく。」
「…俺に海賊船の料理人を勤めろと?」
「そうだ。」ナイフを捨てた男の目に、もう、あの冷たさはなかった。
「美味かった。本当に。お前の食事を食わせてやりたいんだ、仲間たちにも。」
男は黙り込んだゼフをじっと見守る。ゼフはちらりと男の目を見、主人を見た。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「お前の船には何人いる?」
「五十人…と、猫が一匹、だな。」
「猫?」
「食べ盛りでな。……捌けるか?」
「大した数じゃねえな」
「まだまだ増える。何倍にもな。」
「面白れェ」
不敵な笑みを浮かべてみせた料理人に、海賊は笑い返して抱き起こし、縄に手をかけた。
ぽつりと言った。
「俺たちはお前の仲間を皆殺しにしたんだぞ。」
俯いて結び目を解いている男の表情は見えなかった。
「知ってる。今だってお前のその面ァ、一発蹴飛ばしてやりてえよ。それに俺は海賊になりたいわけじゃねえ。本音を言やァ海賊船なンざごめんだ。けどよ……」
「けど?」
ゼフは自由になった手を足下にのばした。そして主人の目を閉じてやりながら、言った。
「ここじゃあメシ食ってくれる奴が誰もいなくなっちまったからな。」
再び笑い転げる男の横で、投げ出されているゼフの足は、主人の血で真っ赫に染まっていた。

この料理人の青年が、キャプテン・ベックマンと名乗ったこの男の船での生活を経たのち、『赫足のゼフ』の呼び名で、自ら海賊団を率いてグランドラインを渡ることになるのは、まだ当分先の話になる。


【END】


Back